どーも、しょうちくです。
今日も引き続き、自分がどれだけ偉大な存在なのかを実感していきましょう。
それには実際に検証してみるのが一番です。
そこで今日は、「自分」と「他の者たち」を比べて、その違いを実際に「見て」みましょう。
他の者たちとは、鏡の中の彼(彼女)のことも含みます。
それでは、さっそく検証に入りましょう↓
-------------------------------------
◆目を閉じるという行為について
まずは、目を閉じるという行為について「見て」みましょう。
<他の者たち>
他の者たちが目を閉じる時、それは、小さな顔についている小さな二つの瞼が閉じるというだけです。
ただそれだけの動きしか見せません。
その行為は、世界にこれっぽっちも影響を与えることができません。
<自分>
対して、自分が目を閉じるという時、一体何が起こるでしょうか?
実際にやってみると、巨大な一つ目が消え、同時にその瞬間、目の前から色や形がすべて消え去ってしまいます。
そして目を開くと、今度はこの巨大な一つ目の中に、瞬時に色や形が現れるのです。
あなたも少しの間、ゆっくり目を閉じたり開いたりを繰り返してみてください。
あなたのその動きに合わせて、世界の色や形も消えたり現われたりしているのを実感してください。
あなたが目を開かない限り、この世界に色や形が存在することはできないのです。
◆歩くという行為について
次は、歩くという行為についてです。
<他の者たち>
他の者たちが歩くとき、それは、固定された不動の世界の中を、彼らはちびちびとゆっくり移動しています。
ただそれだけのことです。
<自分>
一方自分が歩く時といえば、まさにとんでもないことが起こっています。
自分自身を指さしながら歩いてみると、不動の自分の中を、世界がダイナミックに移動していることが、ありありと分かります。
ずんずんと近づいてきてそれらは大きくなり、すれ違う時、それらは巨大な虚空の中へと消え去ってしまうのです。
あなたは、世界を動かすことのできる凄まじい存在なのです。
◆食べるという行為について
今度は、食べるという行為について比べてみましょう。
<他の者たち>
他の者たちが何か物を食べる時、それは、小さい顔の下の方についているさらに小さな穴に向かって、食べ物を放り込んでいるというだけです。
そこには特別に驚くことなどありません。
<自分>
一方、自分自身はどうでしょう?
まず目の前に色や形のある食べ物があります。
それをこの巨大な空間へと移動させると、その色や形は消え去り、瞬間的にそれは味に変わります。
それはまるで魔法のようです。
すご腕マジシャンもびっくりするほどの奇術です。
あなたは色や形である物体を、瞬間的に味に変えることのできる魔法使いなのです。
◆死という現象について
最後は「死」について見てみましょう。
<他の者たち>
他の者たちが「死ぬ」という時、それは、小さい顔の小さな二つの目が閉じられ、呼吸が止まり、すべての活動が停止して、動かなくなる状態のことを示します。
その時、生きていたその者は、死んだのです。
そして、鏡の中の彼(彼女)についても同様のことが起こるということは、容易に想像することができます。
彼(彼女)はどう見ても人間であり、それは「生物」だからです。
彼(彼女)は、今まさに「生きて」います。
ですから、生きている彼(彼女)にはいずれ死が迎えにくることでしょう。
それから逃れるということなど、とてもできそうにありません。
<自分>
一方今度は、「この場所にいる自分自身」について検証してみましょう。
自分は何の形も持っていません。
そして、「この場所」から一度も動いたことがありません。
さらに、あの時といま現在を比べてみても、「これ」は何も変化していません。
自分は、形を持たず、動くことも、変化することもない存在です。
「これ」は空っぽのまま、不変のまま、ずーーーーっと静止しています。
形もなく、何の動きも見せず、一切の変化もしない「これ」を、果たして「生きている」などと言えるでしょうか?
これは生物なのでしょうか?
これはとても生物などと呼べない存在なのではないですか?
そんなものが、果たして死ぬことなどありえるでしょうか?
最初から生きてなどいない「これ」に、死が訪れることを想像することなどできないんじゃないですか?
-------------------------------------
どうでしたか?
自分と他の者たちとの違い、実感できましたか?
自分自身に起こっていることと、他の者たちに起こっていることって、明らかに違う現象なのではないですか?
「自分」って、むちゃくちゃすごい存在なんじゃないですか?
次回は、この「素晴らしい自分」を、日常生活において、より継続的に実感し続けていけるような「練習」について書きたいと思います。
-------------------------------
【今日のまとめ】
・自分が目を閉じれば世界から色や形が消え去る。
・そして目を開けば、世界に色や形が蘇る、しかも瞬時に。
・自分が歩く時、世界がダイナミックに移動を始める。
・そしてすれ違う時、それらは巨大な虚空の中へと消え去ってしまう。
・自分が物を食べるとき、その色や形を魔法のように味に変えることができる。
・自分はいままでここから動いたこともないし、変化したこともない。
・自分は永遠に静止している存在である。
・そんな自分を「生物」と呼ぶのには、とても違和感がある。
・最初から生きてなどいない自分が、死ぬことなど想像もできない。
・自分ってすっげー!
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今日も引き続き、自分がどれだけ偉大な存在なのかを実感していきましょう。
それには実際に検証してみるのが一番です。
そこで今日は、「自分」と「他の者たち」を比べて、その違いを実際に「見て」みましょう。
他の者たちとは、鏡の中の彼(彼女)のことも含みます。
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◆目を閉じるという行為について
まずは、目を閉じるという行為について「見て」みましょう。
<他の者たち>
他の者たちが目を閉じる時、それは、小さな顔についている小さな二つの瞼が閉じるというだけです。
ただそれだけの動きしか見せません。
その行為は、世界にこれっぽっちも影響を与えることができません。
<自分>
対して、自分が目を閉じるという時、一体何が起こるでしょうか?
実際にやってみると、巨大な一つ目が消え、同時にその瞬間、目の前から色や形がすべて消え去ってしまいます。
そして目を開くと、今度はこの巨大な一つ目の中に、瞬時に色や形が現れるのです。
あなたも少しの間、ゆっくり目を閉じたり開いたりを繰り返してみてください。
あなたのその動きに合わせて、世界の色や形も消えたり現われたりしているのを実感してください。
あなたが目を開かない限り、この世界に色や形が存在することはできないのです。
◆歩くという行為について
次は、歩くという行為についてです。
<他の者たち>
他の者たちが歩くとき、それは、固定された不動の世界の中を、彼らはちびちびとゆっくり移動しています。
ただそれだけのことです。
<自分>
一方自分が歩く時といえば、まさにとんでもないことが起こっています。
自分自身を指さしながら歩いてみると、不動の自分の中を、世界がダイナミックに移動していることが、ありありと分かります。
ずんずんと近づいてきてそれらは大きくなり、すれ違う時、それらは巨大な虚空の中へと消え去ってしまうのです。
あなたは、世界を動かすことのできる凄まじい存在なのです。
◆食べるという行為について
今度は、食べるという行為について比べてみましょう。
<他の者たち>
他の者たちが何か物を食べる時、それは、小さい顔の下の方についているさらに小さな穴に向かって、食べ物を放り込んでいるというだけです。
そこには特別に驚くことなどありません。
<自分>
一方、自分自身はどうでしょう?
まず目の前に色や形のある食べ物があります。
それをこの巨大な空間へと移動させると、その色や形は消え去り、瞬間的にそれは味に変わります。
それはまるで魔法のようです。
すご腕マジシャンもびっくりするほどの奇術です。
あなたは色や形である物体を、瞬間的に味に変えることのできる魔法使いなのです。
◆死という現象について
最後は「死」について見てみましょう。
<他の者たち>
他の者たちが「死ぬ」という時、それは、小さい顔の小さな二つの目が閉じられ、呼吸が止まり、すべての活動が停止して、動かなくなる状態のことを示します。
その時、生きていたその者は、死んだのです。
そして、鏡の中の彼(彼女)についても同様のことが起こるということは、容易に想像することができます。
彼(彼女)はどう見ても人間であり、それは「生物」だからです。
彼(彼女)は、今まさに「生きて」います。
ですから、生きている彼(彼女)にはいずれ死が迎えにくることでしょう。
それから逃れるということなど、とてもできそうにありません。
<自分>
一方今度は、「この場所にいる自分自身」について検証してみましょう。
自分は何の形も持っていません。
そして、「この場所」から一度も動いたことがありません。
さらに、あの時といま現在を比べてみても、「これ」は何も変化していません。
自分は、形を持たず、動くことも、変化することもない存在です。
「これ」は空っぽのまま、不変のまま、ずーーーーっと静止しています。
形もなく、何の動きも見せず、一切の変化もしない「これ」を、果たして「生きている」などと言えるでしょうか?
これは生物なのでしょうか?
これはとても生物などと呼べない存在なのではないですか?
そんなものが、果たして死ぬことなどありえるでしょうか?
最初から生きてなどいない「これ」に、死が訪れることを想像することなどできないんじゃないですか?
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どうでしたか?
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自分自身に起こっていることと、他の者たちに起こっていることって、明らかに違う現象なのではないですか?
「自分」って、むちゃくちゃすごい存在なんじゃないですか?
次回は、この「素晴らしい自分」を、日常生活において、より継続的に実感し続けていけるような「練習」について書きたいと思います。
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【今日のまとめ】
・自分が目を閉じれば世界から色や形が消え去る。
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・そしてすれ違う時、それらは巨大な虚空の中へと消え去ってしまう。
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・自分ってすっげー!
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どーも、しょうちくです。
前回までで、「自分とは、顔を持たず、巨大な一つ目で世界を見ている存在であり、世界は自分の中にある」という実感をもてましたでしょうか?
今回は、「その異次元の存在である自分」について、もう少し検証してみましょう。
(異次元といっても、それはマインドにとって異次元なのであり、本当はこの「異常な自分」こそがリアルなんだけどね)
それを検証するのに、僕の意見を鵜呑みにする必要など微塵もありません。
たとえ僕がそれらしきことを言ったとしても、それは僕がそう言っているだけです。
あなたの世界の権威はあなた自身です。
ですから、誰かに「言われたこと」ではなく、あなたの「見たまま」を信頼してください。
それがたとえ、あなたの尊敬する偉い人が言っていたしてもです。
なぜなら、あなた以外にあなたのいる「その場所」に行ける者など誰もいないのですから。
その人は、あなたのいる「その場所」来ることができますか?
あなたのいる「その場所」から何メートルか離れているのではないでしょうか?
ということは、あなたがいる「その場所」から見える世界を実際に確認できるのは、あなた自身しかいないということです。
つまり、「自分自身がどういう存在であるか」を言える立場にある者は、あなたの他にいないのです。
ですから、これから僕が言うことも決して信じないでください。
自分自身でそれを検証してみて、「それが自分にとっても事実であるかどうか」をただ確認してみてください。
僕には、「あなたが世界をどう見ているのか」を知ることはできません。
僕にできることといえばただ、自分が実際に見ている世界を伝え、「僕はこう見えているけど、もしかしたらあなたもそうなんじゃない?」ということを検証してもらうということだけです。
ですから、僕の意見を鵜呑みにするのではなく、それを参考に、「自分はどうだろう?」と確かめてほしいのです。
ということを踏まえた上で、僕の意見を参考に、「あなた自身について」いろいろと検証してみましょう。
--------------------------------------
◆自分は顔をもっていない
「この場所」にいるとき、僕は自分の顔を見つけることができません。
でも、鏡の中にならそれらしきものを見つけられます。
自分が笑えば彼も笑顔になるし、自分が眉間にしわを寄せれば途端に彼は不機嫌そうな顔になります。
寸分の狂いもなく、自分と完全に呼応してい動いているので、どうやら彼は僕と同じもののように見えます。
でも、ちょっと待ってください。
本当にそうでしょうか?
もうちょっとよく見てみましょう。
今度は自分の右目を閉じてみます。
するとどうでしょう。
あれれ?彼はどう見ても彼の左目を閉じています。
それは自分の左目を閉じたときも同じで、彼は彼の右目を閉じています。
どうやら彼は、自分とは左右逆の動きをする存在のようです。
これだけでも、自分とどこか違う存在だとは思いますが、もっと明確に違うことがあります。
それは、彼は自分のいる「この場所」ではなく、向こう側にいるということです。
鏡で彼を見ているとき、彼と自分との間には、およそ30㎝ほどの距離があります。
つまり、彼は「この場所」にいるのではなくて、「鏡のある30㎝向こう」にいるのです。
あなたも確認してみてください。
鏡の中の彼(彼女)は、自分とは「離れている」のではありませんか?
そして、彼(彼女)には確かに顔があるが、あなたには顔などないのではありませんか?
それを自覚するためには、自分のいる「この場所」(顔のない自分)を意識しながら、同時に鏡の中の彼(彼女)を見ることです。
「自分」と「鏡の中の彼(彼女)」の両方を一緒に見るのです。
慣れないうちは交互に見ても構いません。
「彼(彼女)は顔をもっている。では私はどうだろう?」
というように、彼(彼女)と自分とを交互に見てみてください。
僕の経験はこうです。
「確かに鏡には、いままで自分自身だと思い込んでいた者がいる。」
「そして彼は顔をもっている。しかし、『自分』はここに『顔』と呼べるようなものをもっていない。」
あなたはどうですか?
あなたのいるその場所で、あなたは「自分の顔」を見つけることができるでしょうか?
それは、他人と顔を合わせている時も同様です。
今度誰かと向かい合って接する機会があったなら、次のようなことを検証してみましょう。
「自分はいま、『彼(彼女)の顔』を見ているが、自分のいるこの場所にも『顔らしきもの』はあるだろうか?」
「そもそも、いままで自分は誰かと『顔対顔』になったことがあるだろうか?」
それについての僕の経験ではこうです。
「自分は、今まで一度たりとも誰かと『顔対顔』になったことなどない。」
「誰かと向かい合っている時はいつも、『顔のあるその人』対『顔のない自分』だった。」
あなたの場合はどうですか?
------------------------------
◆自分は形なき「空間」である
そして僕は、この場所で自分自身の顔を見つけられないばかりか、ここに何かの「形」すら見つけることができません。
この場所にいる自分は、顔もなければそもそも形と呼べる何かすら存在しない者です。
これに何か名前を付けるとするならば、それは「空間」です。
これはまさに空っぽです。
ここには塵一つ存在していません。
それは無色透明で、何の主張もしていません。
自分が空っぽなので、何かを拒絶することができません。
そもそもこれは、何かを拒絶できるような性質のものではないようです。
これは何の条件も付けずに、世界のすべてを受け容れています。
これはまさに「無条件の愛」そのものです。
自分自身が空っぽであるからこそ、すべてを受け容れています。
何一つ、自らの存在を主張していないので、他のすべてが存在することを許すことができています。
こんなにも無条件ですべてを受け容れることのできる存在を、僕は「神」と「空っぽの自分自身」しか知りません。
あなたはどうですか?
あなたのいるその場所に、何か特定の「形」を発見することができるでしょうか?
あなたは「形なき空間」ではありませんか?
空っぽであるあなたは、何かを拒絶する術すらないのではありませんか?
自分が空っぽであるからこそ、世界のすべてを受け容れているのではありませんか?
それは、神のようにすべてを受容しているのではありませんか?
「空っぽであるあなた」は、まさに「神(無条件の愛)」と同じ性質なのではありませんか?
---------------------------------------
◆自分はすべてを所有している
さらに、空っぽである自分は、すべてを所有することができています。
所有とはまさにこの「空っぽの自分」にこそふさわしい言葉です。
物と物とは、必ず対立してしまいます。
その性質上、それは同じ場所(座標)に存在することができないからです。
ですから、人間としてのしょうちくが何を手に入れようとも、それは本当の意味で所有しているわけではありません。
それは所有という幻想でしかありません。
彼ができるのはせいぜい「接近」です。
あるいは「密着」です。
たとえ彼が、食べてしまいたいほど愛しい人を、どんなに強く抱きしめたとしても、彼にできるのはせいぜい「密着」でしかありません。
彼には、真の意味で何かを「所有」することなどできません。
形がある彼は、自分が存在するために、彼のいるその場所から他のモノを排除する必要があります。
同じ場所に、同時に違うモノは存在できないからです。
だから、それが「物体」である以上、それが何かを「所有」するということは、その性質上できないのです。
一方、「この場所」にいる「自分」はどうでしょう?
「この場所にいる自分」に目を向けると、空っぽの自分は何の形もありません。
何かを見た時、その対象を邪魔するものなど塵一つありません。
自らは空っぽな「空間」となって、すべてがこの空間に存在することを、ただただ認めています。
それは、無色透明な、空っぽの「巨大な器」のようです。
その中に何も入っていないからこそ、他のすべてをそこへ入れることができています。
この場所にいる空っぽの自分は、目の前にあるすべてを、真の意味で「所有」しています。
だから、何かを見るとき、自分はそれそのものとなっています。
何か物を見ればその物に。
誰かを見ればその人に。
鏡を見ればしょうちくという人間に。
あなたはどうですか?
空っぽのあなたは、世界のすべてを真の意味で「所有している」と言えるのではないですか?
形ある他の者達の「所有という幻想(接近や密着)」と違って、空っぽのあなたにこそ「所有」という言葉はしっくりくると思いませんか?
------------------------------
◆自分はすべての存在を完璧なものにしてしまう
鏡の中の彼はとても頼りなく、マインド的に言えば、どうやら彼は「問題の多い人間」のようです。
そして、自分とそんな彼とを同一化してしまっているとき、彼をどうしても批判してしまう自分に気が付きます。
でも、自分がこの場所にいることを自覚しているときはどうでしょうか?
「空っぽの自分」として彼を見た時、自分には彼がどう見えているのでしょうか?
僕の経験ではこうです。
この場所で「空っぽの自分」でいるとき、どういうわけか彼は完璧になります。
それは、彼が突然「完璧超人」になるとかそういうことではなく、不完全な彼のままで「完璧」になるのです。
この場所にいる時、この「空っぽの自分」は、彼の不完全さもすべてひっくるめて、「あなたはそのままで完璧である」と迷いなく言うことができています。
それは言葉ではなく、声なき声でそう言っています。
自分の(彼を一切拒絶することなく、全面的に受け入れているという)在り方でもって、そう言っています。
そしてその時、彼のすべてを愛おしく感じています。
彼は、この世界を経験するための大事な大事なパートナーだからです。
彼がいなければ、自分はこの世界を充分に満喫することができません。
彼は、自分にとってかけがえのない存在なのです。
この場所に留まるとき、この「空っぽの自分」は彼のあるがままを認めています。
不完全な彼のままで完璧だからです。
そして同じように、この世界のすべての存在も認めています。
マインドに言わせると、確かに世界には問題が山積みのように見えます。
不完全な人間同士が集まり、その不完全さは倍々ゲームでどんどん増していっているように見えます。
それはとても完璧とはほど遠いように見えます。
でも、この空っぽの自分は、その不完全さも含めて、すべて「オールオッケー」にしてしまいます。
不完全な世界をも完全にしてしまうのです。
その「あるがままの存在」を、そのままのカタチで認めています。
「自らは何も主張していない」というその性質上、何かを拒絶することなどできないのですから。
実際に目の前に示されている証拠をもとにした、僕の経験ではそんな感じです。
あなたはどうですか?
「空っぽであるあなた」もまた、鏡の中の彼(彼女)を、そして世界のすべての存在を、不完全なまま完璧にしてしまっているのではないですか?
「空っぽのあなた」が、何かを「NO!」といって拒絶することなどできるでしょうか?
--------------------------
◆自分は不動の存在である
このことはとても当たり前なのですが、マインドにとってはとても奇妙な事実です。
それは、「自分はいままで、この場所から1㎜たりとも動いたことがない」ということです。
動いていたのはいつも世界の方でした。
自分が歩けば世界が「ここへ」寄ってきました。
このことは、自分自身を指さしながら回転してみたり、移動してみたりするととても分かりやすいです。
回転しているとき、自分ではなく世界が回っています。
移動しているとき、自分ではなく世界が移動しています。
これは、車の運転中には、もっとありありと実感することができます。
ゲームセンターなどで、レーシングゲームをしたことはありますか?
レーシングカーを俯瞰しているやつではなくて、ドライバー目線のやつです。
あれって、画面はその場に固定されていて、アクセルペダルを踏み込むと、その画面の中を景色がビュンビュン流れていくでしょ?
あれは何もゲームに限ったことではありません。
実際に自分が車を運転している時も、あれと同じなんです。
運転中に与えられている事実をもとに検証してみると、自分はこの場所から1㎜たりとも動いていないのに、世界の方がどんどん自分に近づいてきているということが、はっきりと分かります。
そしてバックミラーに目をやれば、世界はどんどん自分から離れていっているのです。
目の前の景色はビュンビュン変わっていくのに、自分はずーーーっとここにいます。
何をどう見ても、自分は動いておらず、世界の方が忙しく動き回っているのです。
試しに、家でくつろいでいる時の自分と、車で移動している時の自分と、出先にいる時の自分を比べてみます。
すると、どんな場所へ行こうと自分は、この場所から移動したことなど一度もないことに気が付きます。
そして、自分がこの場所から移動するなどということは、今後も起こりそうにありません。
あなたはどうですか?
あなたのいる「その場所」は常に固定されていて、いつでも動き回っているのは世界の方なのではないでしょうか?
いいことが起こった時、悪いことが起こった時、たとえ何が起こった時でも、それはいつも「ここ」で起こっていたのではないですか?
そして、それはいつだって「いま」起こっていたのではないですか?
あなたはどんな時も、「いまここ」から離れたことなどないのではないでしょうか?
そして、あなたが今後「いまここ」から離れられる可能性など考えられるでしょうか?
------------------------------------
◆自分は一切変化することがない
もう一度、鏡の中の彼に目を向けてみます。
誕生から32年の歳月が経ち、ポツポツと白髪も生えてきて、ご多分に漏れず、彼もオッサンの仲間入りを始めたようです。
鏡の中の相棒は、刻一刻と変化し続けています。
しかし同時に自分は、彼が5歳のときも20歳のときも、32歳になったいま現在も、この「自分」は何一つとして変化をしていないことにも気が付いています。
この世界には変化に耐えうるものなど存在しないようなのですが、どうやらこの「自分」だけは唯一例外のようです。
この「自分」が変わる可能性を、僕にはとても想像することができません。
あなたはどうですか?
鏡の中の彼(彼女)は、子供の頃といま現在ではだいぶ変わってしまっているのに、「この場所」にいる「自分」は、あの頃といまも、相変わらず何の変化もしていないのではないでしょうか?
そしてこの自分が、今後変化をする可能性などあり得るでしょうか?
-------------------------------------
「自分自身」について、いろいろ検証してみてどうでした?
自分がどれほど偉大な存在なのか実感できましたか?
あなたは、どんな偉人もその足元にも及ばないほど、偉大な存在なのではないですか?
以上のような事実は、常に「自分」の目の前に明確に示されていました。
でも、いままでマインドと一体となっていた僕たちは、それを見逃し続けていました。
それでもこの事実は、一度たりとも隠されたことなどなく、いつでもこの場所で明らかにされていたのです。
このことを一度でも自覚してしまえば、どうして長いことこのことを見逃すことができていたのか、全くもって不思議です。
では、とてもとても神秘的なこの「自分という存在」をかみしめながら、次回は「自分と他の者たちとの違い」を検証して、さらに自分自身の偉大さを実感していきましょう。
--------------------------------
【今日のまとめ】
・どんな偉い人も自分のいる「この場所」に来ることはできない。
・だから自分自身について知りたいなら、いまこの瞬間に与えられてる証拠をもとに、自分の「見たまま」を信頼しよう。
・あなたは形なき「空間」ではないですか?
・空っぽのあなたは、その性質上、何ひとつ拒絶することができないのではないですか?
・そのため、すべてを受け容れ、すべてを所有しているのではないですか?
・それこそが「無条件の愛」なのではないですか?
・それはまさに「神」と同じような性質なのではないですか?
・あなたは「いまここ」から一度も離れたことがないのではないですか?
・忙しく動き回っていたのは、いつも世界の方だったのではないですか?
・鏡の中の彼(彼女)が刻一刻と変化し続けているのに比べて、自分はあの時も、今現在も、そして今後も、全く変化する気配すらないのではないですか?
・自分って不っ思議~♪
空っぽであるあなたは、左下にあるランキングボタンの存在を拒絶することはできません。無条件でその存在を受け容れています。虚空から突然現れているその「神の右手」でマウスを操作し、カーソルをランキングボタンに合わせましょう。あとはそれをクリックするだけです。いつも押してくれてありがとう↓
前回までで、「自分とは、顔を持たず、巨大な一つ目で世界を見ている存在であり、世界は自分の中にある」という実感をもてましたでしょうか?
今回は、「その異次元の存在である自分」について、もう少し検証してみましょう。
(異次元といっても、それはマインドにとって異次元なのであり、本当はこの「異常な自分」こそがリアルなんだけどね)
それを検証するのに、僕の意見を鵜呑みにする必要など微塵もありません。
たとえ僕がそれらしきことを言ったとしても、それは僕がそう言っているだけです。
あなたの世界の権威はあなた自身です。
ですから、誰かに「言われたこと」ではなく、あなたの「見たまま」を信頼してください。
それがたとえ、あなたの尊敬する偉い人が言っていたしてもです。
なぜなら、あなた以外にあなたのいる「その場所」に行ける者など誰もいないのですから。
その人は、あなたのいる「その場所」来ることができますか?
あなたのいる「その場所」から何メートルか離れているのではないでしょうか?
ということは、あなたがいる「その場所」から見える世界を実際に確認できるのは、あなた自身しかいないということです。
つまり、「自分自身がどういう存在であるか」を言える立場にある者は、あなたの他にいないのです。
ですから、これから僕が言うことも決して信じないでください。
自分自身でそれを検証してみて、「それが自分にとっても事実であるかどうか」をただ確認してみてください。
僕には、「あなたが世界をどう見ているのか」を知ることはできません。
僕にできることといえばただ、自分が実際に見ている世界を伝え、「僕はこう見えているけど、もしかしたらあなたもそうなんじゃない?」ということを検証してもらうということだけです。
ですから、僕の意見を鵜呑みにするのではなく、それを参考に、「自分はどうだろう?」と確かめてほしいのです。
ということを踏まえた上で、僕の意見を参考に、「あなた自身について」いろいろと検証してみましょう。
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◆自分は顔をもっていない
「この場所」にいるとき、僕は自分の顔を見つけることができません。
でも、鏡の中にならそれらしきものを見つけられます。
自分が笑えば彼も笑顔になるし、自分が眉間にしわを寄せれば途端に彼は不機嫌そうな顔になります。
寸分の狂いもなく、自分と完全に呼応してい動いているので、どうやら彼は僕と同じもののように見えます。
でも、ちょっと待ってください。
本当にそうでしょうか?
もうちょっとよく見てみましょう。
今度は自分の右目を閉じてみます。
するとどうでしょう。
あれれ?彼はどう見ても彼の左目を閉じています。
それは自分の左目を閉じたときも同じで、彼は彼の右目を閉じています。
どうやら彼は、自分とは左右逆の動きをする存在のようです。
これだけでも、自分とどこか違う存在だとは思いますが、もっと明確に違うことがあります。
それは、彼は自分のいる「この場所」ではなく、向こう側にいるということです。
鏡で彼を見ているとき、彼と自分との間には、およそ30㎝ほどの距離があります。
つまり、彼は「この場所」にいるのではなくて、「鏡のある30㎝向こう」にいるのです。
あなたも確認してみてください。
鏡の中の彼(彼女)は、自分とは「離れている」のではありませんか?
そして、彼(彼女)には確かに顔があるが、あなたには顔などないのではありませんか?
それを自覚するためには、自分のいる「この場所」(顔のない自分)を意識しながら、同時に鏡の中の彼(彼女)を見ることです。
「自分」と「鏡の中の彼(彼女)」の両方を一緒に見るのです。
慣れないうちは交互に見ても構いません。
「彼(彼女)は顔をもっている。では私はどうだろう?」
というように、彼(彼女)と自分とを交互に見てみてください。
僕の経験はこうです。
「確かに鏡には、いままで自分自身だと思い込んでいた者がいる。」
「そして彼は顔をもっている。しかし、『自分』はここに『顔』と呼べるようなものをもっていない。」
あなたはどうですか?
あなたのいるその場所で、あなたは「自分の顔」を見つけることができるでしょうか?
それは、他人と顔を合わせている時も同様です。
今度誰かと向かい合って接する機会があったなら、次のようなことを検証してみましょう。
「自分はいま、『彼(彼女)の顔』を見ているが、自分のいるこの場所にも『顔らしきもの』はあるだろうか?」
「そもそも、いままで自分は誰かと『顔対顔』になったことがあるだろうか?」
それについての僕の経験ではこうです。
「自分は、今まで一度たりとも誰かと『顔対顔』になったことなどない。」
「誰かと向かい合っている時はいつも、『顔のあるその人』対『顔のない自分』だった。」
あなたの場合はどうですか?
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◆自分は形なき「空間」である
そして僕は、この場所で自分自身の顔を見つけられないばかりか、ここに何かの「形」すら見つけることができません。
この場所にいる自分は、顔もなければそもそも形と呼べる何かすら存在しない者です。
これに何か名前を付けるとするならば、それは「空間」です。
これはまさに空っぽです。
ここには塵一つ存在していません。
それは無色透明で、何の主張もしていません。
自分が空っぽなので、何かを拒絶することができません。
そもそもこれは、何かを拒絶できるような性質のものではないようです。
これは何の条件も付けずに、世界のすべてを受け容れています。
これはまさに「無条件の愛」そのものです。
自分自身が空っぽであるからこそ、すべてを受け容れています。
何一つ、自らの存在を主張していないので、他のすべてが存在することを許すことができています。
こんなにも無条件ですべてを受け容れることのできる存在を、僕は「神」と「空っぽの自分自身」しか知りません。
あなたはどうですか?
あなたのいるその場所に、何か特定の「形」を発見することができるでしょうか?
あなたは「形なき空間」ではありませんか?
空っぽであるあなたは、何かを拒絶する術すらないのではありませんか?
自分が空っぽであるからこそ、世界のすべてを受け容れているのではありませんか?
それは、神のようにすべてを受容しているのではありませんか?
「空っぽであるあなた」は、まさに「神(無条件の愛)」と同じ性質なのではありませんか?
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◆自分はすべてを所有している
さらに、空っぽである自分は、すべてを所有することができています。
所有とはまさにこの「空っぽの自分」にこそふさわしい言葉です。
物と物とは、必ず対立してしまいます。
その性質上、それは同じ場所(座標)に存在することができないからです。
ですから、人間としてのしょうちくが何を手に入れようとも、それは本当の意味で所有しているわけではありません。
それは所有という幻想でしかありません。
彼ができるのはせいぜい「接近」です。
あるいは「密着」です。
たとえ彼が、食べてしまいたいほど愛しい人を、どんなに強く抱きしめたとしても、彼にできるのはせいぜい「密着」でしかありません。
彼には、真の意味で何かを「所有」することなどできません。
形がある彼は、自分が存在するために、彼のいるその場所から他のモノを排除する必要があります。
同じ場所に、同時に違うモノは存在できないからです。
だから、それが「物体」である以上、それが何かを「所有」するということは、その性質上できないのです。
一方、「この場所」にいる「自分」はどうでしょう?
「この場所にいる自分」に目を向けると、空っぽの自分は何の形もありません。
何かを見た時、その対象を邪魔するものなど塵一つありません。
自らは空っぽな「空間」となって、すべてがこの空間に存在することを、ただただ認めています。
それは、無色透明な、空っぽの「巨大な器」のようです。
その中に何も入っていないからこそ、他のすべてをそこへ入れることができています。
この場所にいる空っぽの自分は、目の前にあるすべてを、真の意味で「所有」しています。
だから、何かを見るとき、自分はそれそのものとなっています。
何か物を見ればその物に。
誰かを見ればその人に。
鏡を見ればしょうちくという人間に。
あなたはどうですか?
空っぽのあなたは、世界のすべてを真の意味で「所有している」と言えるのではないですか?
形ある他の者達の「所有という幻想(接近や密着)」と違って、空っぽのあなたにこそ「所有」という言葉はしっくりくると思いませんか?
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◆自分はすべての存在を完璧なものにしてしまう
鏡の中の彼はとても頼りなく、マインド的に言えば、どうやら彼は「問題の多い人間」のようです。
そして、自分とそんな彼とを同一化してしまっているとき、彼をどうしても批判してしまう自分に気が付きます。
でも、自分がこの場所にいることを自覚しているときはどうでしょうか?
「空っぽの自分」として彼を見た時、自分には彼がどう見えているのでしょうか?
僕の経験ではこうです。
この場所で「空っぽの自分」でいるとき、どういうわけか彼は完璧になります。
それは、彼が突然「完璧超人」になるとかそういうことではなく、不完全な彼のままで「完璧」になるのです。
この場所にいる時、この「空っぽの自分」は、彼の不完全さもすべてひっくるめて、「あなたはそのままで完璧である」と迷いなく言うことができています。
それは言葉ではなく、声なき声でそう言っています。
自分の(彼を一切拒絶することなく、全面的に受け入れているという)在り方でもって、そう言っています。
そしてその時、彼のすべてを愛おしく感じています。
彼は、この世界を経験するための大事な大事なパートナーだからです。
彼がいなければ、自分はこの世界を充分に満喫することができません。
彼は、自分にとってかけがえのない存在なのです。
この場所に留まるとき、この「空っぽの自分」は彼のあるがままを認めています。
不完全な彼のままで完璧だからです。
そして同じように、この世界のすべての存在も認めています。
マインドに言わせると、確かに世界には問題が山積みのように見えます。
不完全な人間同士が集まり、その不完全さは倍々ゲームでどんどん増していっているように見えます。
それはとても完璧とはほど遠いように見えます。
でも、この空っぽの自分は、その不完全さも含めて、すべて「オールオッケー」にしてしまいます。
不完全な世界をも完全にしてしまうのです。
その「あるがままの存在」を、そのままのカタチで認めています。
「自らは何も主張していない」というその性質上、何かを拒絶することなどできないのですから。
実際に目の前に示されている証拠をもとにした、僕の経験ではそんな感じです。
あなたはどうですか?
「空っぽであるあなた」もまた、鏡の中の彼(彼女)を、そして世界のすべての存在を、不完全なまま完璧にしてしまっているのではないですか?
「空っぽのあなた」が、何かを「NO!」といって拒絶することなどできるでしょうか?
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◆自分は不動の存在である
このことはとても当たり前なのですが、マインドにとってはとても奇妙な事実です。
それは、「自分はいままで、この場所から1㎜たりとも動いたことがない」ということです。
動いていたのはいつも世界の方でした。
自分が歩けば世界が「ここへ」寄ってきました。
このことは、自分自身を指さしながら回転してみたり、移動してみたりするととても分かりやすいです。
回転しているとき、自分ではなく世界が回っています。
移動しているとき、自分ではなく世界が移動しています。
これは、車の運転中には、もっとありありと実感することができます。
ゲームセンターなどで、レーシングゲームをしたことはありますか?
レーシングカーを俯瞰しているやつではなくて、ドライバー目線のやつです。
あれって、画面はその場に固定されていて、アクセルペダルを踏み込むと、その画面の中を景色がビュンビュン流れていくでしょ?
あれは何もゲームに限ったことではありません。
実際に自分が車を運転している時も、あれと同じなんです。
運転中に与えられている事実をもとに検証してみると、自分はこの場所から1㎜たりとも動いていないのに、世界の方がどんどん自分に近づいてきているということが、はっきりと分かります。
そしてバックミラーに目をやれば、世界はどんどん自分から離れていっているのです。
目の前の景色はビュンビュン変わっていくのに、自分はずーーーっとここにいます。
何をどう見ても、自分は動いておらず、世界の方が忙しく動き回っているのです。
試しに、家でくつろいでいる時の自分と、車で移動している時の自分と、出先にいる時の自分を比べてみます。
すると、どんな場所へ行こうと自分は、この場所から移動したことなど一度もないことに気が付きます。
そして、自分がこの場所から移動するなどということは、今後も起こりそうにありません。
あなたはどうですか?
あなたのいる「その場所」は常に固定されていて、いつでも動き回っているのは世界の方なのではないでしょうか?
いいことが起こった時、悪いことが起こった時、たとえ何が起こった時でも、それはいつも「ここ」で起こっていたのではないですか?
そして、それはいつだって「いま」起こっていたのではないですか?
あなたはどんな時も、「いまここ」から離れたことなどないのではないでしょうか?
そして、あなたが今後「いまここ」から離れられる可能性など考えられるでしょうか?
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◆自分は一切変化することがない
もう一度、鏡の中の彼に目を向けてみます。
誕生から32年の歳月が経ち、ポツポツと白髪も生えてきて、ご多分に漏れず、彼もオッサンの仲間入りを始めたようです。
鏡の中の相棒は、刻一刻と変化し続けています。
しかし同時に自分は、彼が5歳のときも20歳のときも、32歳になったいま現在も、この「自分」は何一つとして変化をしていないことにも気が付いています。
この世界には変化に耐えうるものなど存在しないようなのですが、どうやらこの「自分」だけは唯一例外のようです。
この「自分」が変わる可能性を、僕にはとても想像することができません。
あなたはどうですか?
鏡の中の彼(彼女)は、子供の頃といま現在ではだいぶ変わってしまっているのに、「この場所」にいる「自分」は、あの頃といまも、相変わらず何の変化もしていないのではないでしょうか?
そしてこの自分が、今後変化をする可能性などあり得るでしょうか?
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「自分自身」について、いろいろ検証してみてどうでした?
自分がどれほど偉大な存在なのか実感できましたか?
あなたは、どんな偉人もその足元にも及ばないほど、偉大な存在なのではないですか?
以上のような事実は、常に「自分」の目の前に明確に示されていました。
でも、いままでマインドと一体となっていた僕たちは、それを見逃し続けていました。
それでもこの事実は、一度たりとも隠されたことなどなく、いつでもこの場所で明らかにされていたのです。
このことを一度でも自覚してしまえば、どうして長いことこのことを見逃すことができていたのか、全くもって不思議です。
では、とてもとても神秘的なこの「自分という存在」をかみしめながら、次回は「自分と他の者たちとの違い」を検証して、さらに自分自身の偉大さを実感していきましょう。
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【今日のまとめ】
・どんな偉い人も自分のいる「この場所」に来ることはできない。
・だから自分自身について知りたいなら、いまこの瞬間に与えられてる証拠をもとに、自分の「見たまま」を信頼しよう。
・あなたは形なき「空間」ではないですか?
・空っぽのあなたは、その性質上、何ひとつ拒絶することができないのではないですか?
・そのため、すべてを受け容れ、すべてを所有しているのではないですか?
・それこそが「無条件の愛」なのではないですか?
・それはまさに「神」と同じような性質なのではないですか?
・あなたは「いまここ」から一度も離れたことがないのではないですか?
・忙しく動き回っていたのは、いつも世界の方だったのではないですか?
・鏡の中の彼(彼女)が刻一刻と変化し続けているのに比べて、自分はあの時も、今現在も、そして今後も、全く変化する気配すらないのではないですか?
・自分って不っ思議~♪
空っぽであるあなたは、左下にあるランキングボタンの存在を拒絶することはできません。無条件でその存在を受け容れています。虚空から突然現れているその「神の右手」でマウスを操作し、カーソルをランキングボタンに合わせましょう。あとはそれをクリックするだけです。いつも押してくれてありがとう↓
どーも、しょうちくです。
前回「指差し実験」をやってもらいましたが、どうでした?
自分から「顔」がなくなってしまいませんでしたか?
(まだ実験をやっていない人は是非やってみてください。
↓↓↓↓
2014/01/04
今回の内容は、実験をやっていることを前提に書いていますので。)
でも、その「自分に顔がない」ということがどれだけ素晴らしい意味をもつのか、もしかしたらあなた(マインド)は、疑問に思っているかもしれません。
僕がこの実験を最初にやったときがそうでしたので。
「確かにここには顔と呼べるようなものはない。・・・でも、だからどうしたの?」
という感想の人も、少なからずいると思います。
では今度は、「顔がない自分」のまま、次のサイトの下段あたりにある画像をご覧になってみてください↓↓↓
単一の目
画像を参考に、自分自身が実際に見ている風景を「見て」みましょう。
顔のないあなたは、その画像のような風景をいつも見ているのではないですか?
つまり、「小さな二つの目」なんかではなく、「巨大な一つの目」で、世界を見ているのではないですか?
まだピンとこない人は、試しに、どこか一点を見つめながら、自分の見ている世界が消える境界線を、手でなぞってみてください。
自分の視界の境界線をなぞるのです。
どうですか?
あなたは「巨大な一つ目」で世界を見ている存在ではないですか?
ちなみに、このことを検証した瞬間、僕の世界観は180度変わりましたが、あなたはどうでしょうか?
マルコヴィッチの穴という映画をご覧になったことはあるでしょうか?
この映画は、とある雑居ビルの中にある小さな「穴」を進んでいくと、人々が俳優ジョン・マルコヴィッチの中に入って、その人生を経験することができるようになる、という内容です。
映画を見たことない人はピンとこないかもしれませんが、僕はいま、その映画と同じような感覚です。
この人間の(僕の場合ならしょうちくの)人生を、一方的に観察している存在のように感じるのです。
僕はこのことに気がついてから、世界の見え方がまるっきり変わってしまいました。
それは、天地がひっくり返るほどの衝撃でした。
本当に、何もかもが「あべこべ」だったからです。
自分は、小さい二つの目から世界を見ているのではなく、巨大な一つの目で世界を見ていました。
そして、今まで自分自身だと信じて疑わなかったこの体に目をやると、それは巨大な目の中で、下から上へ向かって伸びていました。
自分の頭の下に体があるのではなくて、自分の巨大な目の中にそれはありました。
さらに体だけでなく、世界も自分の中にありました。
自分が世界の中にいるのではなく、世界が自分の中にあったのです。
自分は、映画のスクリーンの外から「一方的に観察し続けている者」でした。
にもかかわらず、自分が意図すればこの体を自由に動かすことができます。
それはまるで、FPSゲームのような感覚です(FPSとは、First Person Shooter の略で、プレイヤー視点でするゲームのことです。こんな感じのゲームです。あまり長く見ると酔っちゃうので、気を付けて見てください)。
それは、映画やゲームの中に体ごと入っているかのような感覚です。
しかも、その臨場感はハンパじゃありません。
それは、どんなリアルなゲームや映画も足元にも及ばないほどのリアルさです。
両手がパソコンのキーボードを叩けば、そのキーボードの感触を味わい、「カタカタカタ」という音を取り込むことができます。
そばにあるホットコーヒーの香りをかぎ、その温かな温度を味わい、その味を楽しむこともできます。
にもかかわらず、自分はその世界の外側で一方的にそれを観察している者なのです(正確には世界と自分との間に境界など存在しませんが、今は説明のために「外側」という表現を使います)。
実際にいまここで示されている証拠に基づくと、僕の経験はそんな感じです。
あなたもそうじゃないですか?
まるで定点カメラのように世界を見ているのではないですか?
FPSゲームのように、与えられたこの体(キャラクター)を操作しているのではないですか?
「顔を持たず、巨大な一つ目で世界を見ていて、体はその目の中で下から上へと伸びている」
果たして、このような存在を「人間」などと呼べるでしょうか?
それは、僕が知っている人間の定義とはほど遠いものです。
目の前にいる彼や彼女らは確かに人間です。
鏡の中にいる彼(しょうちく)も、他のみんなと同じように、どう見ても人間です。
頭を持ち、その下に胴体や手足が生えて(?)います。
でも、自分を見てみると、完全に彼らとは別のものです。
この異様な存在を、僕は明確に定義することができません。
そして僕は、このような存在を「自分」の他には見つけることができません。
「この存在」は、他のどんなモノと比べてみても、まるで「次元の違う」存在なのです。
------------------------------------
このことを踏まえて、次回はもっと、「この存在」についていろいろ検証していきたいと思います。
(◆The Headless Way―頭がない方法や◆The Headless Way 公式サイトにも詳しい説明が載っています。僕の更新が待ちきれないという方は、そちらをご覧になることをオススメします。)
【今日のまとめ】
・本当は自分に「顔」などない。
・実際に示されている証拠を基に検証してみると、自分は明らかに人間などではない。
・自分は巨大な一つ目で世界を見ている観察者である。
・観察者でありながらこの身体を操作することもできる、「摩訶不思議な存在」である。
・この世界はFPSゲームのようなものである。
・しかも、そこらのゲームや映画など遠く及ばないほどの臨場感をもっている。
「巨大な一つ目の自分」を実感できたかな~?あなたの認識が変わる(元に戻る)と嬉しいな~。あと、クリックもしてほしいな~↓↓
前回「指差し実験」をやってもらいましたが、どうでした?
自分から「顔」がなくなってしまいませんでしたか?
(まだ実験をやっていない人は是非やってみてください。
↓↓↓↓
2014/01/04
今回の内容は、実験をやっていることを前提に書いていますので。)
でも、その「自分に顔がない」ということがどれだけ素晴らしい意味をもつのか、もしかしたらあなた(マインド)は、疑問に思っているかもしれません。
僕がこの実験を最初にやったときがそうでしたので。
「確かにここには顔と呼べるようなものはない。・・・でも、だからどうしたの?」
という感想の人も、少なからずいると思います。
では今度は、「顔がない自分」のまま、次のサイトの下段あたりにある画像をご覧になってみてください↓↓↓
単一の目
画像を参考に、自分自身が実際に見ている風景を「見て」みましょう。
顔のないあなたは、その画像のような風景をいつも見ているのではないですか?
つまり、「小さな二つの目」なんかではなく、「巨大な一つの目」で、世界を見ているのではないですか?
まだピンとこない人は、試しに、どこか一点を見つめながら、自分の見ている世界が消える境界線を、手でなぞってみてください。
自分の視界の境界線をなぞるのです。
どうですか?
あなたは「巨大な一つ目」で世界を見ている存在ではないですか?
ちなみに、このことを検証した瞬間、僕の世界観は180度変わりましたが、あなたはどうでしょうか?
マルコヴィッチの穴という映画をご覧になったことはあるでしょうか?
この映画は、とある雑居ビルの中にある小さな「穴」を進んでいくと、人々が俳優ジョン・マルコヴィッチの中に入って、その人生を経験することができるようになる、という内容です。
映画を見たことない人はピンとこないかもしれませんが、僕はいま、その映画と同じような感覚です。
この人間の(僕の場合ならしょうちくの)人生を、一方的に観察している存在のように感じるのです。
僕はこのことに気がついてから、世界の見え方がまるっきり変わってしまいました。
それは、天地がひっくり返るほどの衝撃でした。
本当に、何もかもが「あべこべ」だったからです。
自分は、小さい二つの目から世界を見ているのではなく、巨大な一つの目で世界を見ていました。
そして、今まで自分自身だと信じて疑わなかったこの体に目をやると、それは巨大な目の中で、下から上へ向かって伸びていました。
自分の頭の下に体があるのではなくて、自分の巨大な目の中にそれはありました。
さらに体だけでなく、世界も自分の中にありました。
自分が世界の中にいるのではなく、世界が自分の中にあったのです。
自分は、映画のスクリーンの外から「一方的に観察し続けている者」でした。
にもかかわらず、自分が意図すればこの体を自由に動かすことができます。
それはまるで、FPSゲームのような感覚です(FPSとは、First Person Shooter の略で、プレイヤー視点でするゲームのことです。こんな感じのゲームです。あまり長く見ると酔っちゃうので、気を付けて見てください)。
それは、映画やゲームの中に体ごと入っているかのような感覚です。
しかも、その臨場感はハンパじゃありません。
それは、どんなリアルなゲームや映画も足元にも及ばないほどのリアルさです。
両手がパソコンのキーボードを叩けば、そのキーボードの感触を味わい、「カタカタカタ」という音を取り込むことができます。
そばにあるホットコーヒーの香りをかぎ、その温かな温度を味わい、その味を楽しむこともできます。
にもかかわらず、自分はその世界の外側で一方的にそれを観察している者なのです(正確には世界と自分との間に境界など存在しませんが、今は説明のために「外側」という表現を使います)。
実際にいまここで示されている証拠に基づくと、僕の経験はそんな感じです。
あなたもそうじゃないですか?
まるで定点カメラのように世界を見ているのではないですか?
FPSゲームのように、与えられたこの体(キャラクター)を操作しているのではないですか?
「顔を持たず、巨大な一つ目で世界を見ていて、体はその目の中で下から上へと伸びている」
果たして、このような存在を「人間」などと呼べるでしょうか?
それは、僕が知っている人間の定義とはほど遠いものです。
目の前にいる彼や彼女らは確かに人間です。
鏡の中にいる彼(しょうちく)も、他のみんなと同じように、どう見ても人間です。
頭を持ち、その下に胴体や手足が生えて(?)います。
でも、自分を見てみると、完全に彼らとは別のものです。
この異様な存在を、僕は明確に定義することができません。
そして僕は、このような存在を「自分」の他には見つけることができません。
「この存在」は、他のどんなモノと比べてみても、まるで「次元の違う」存在なのです。
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このことを踏まえて、次回はもっと、「この存在」についていろいろ検証していきたいと思います。
(◆The Headless Way―頭がない方法や◆The Headless Way 公式サイトにも詳しい説明が載っています。僕の更新が待ちきれないという方は、そちらをご覧になることをオススメします。)
【今日のまとめ】
・本当は自分に「顔」などない。
・実際に示されている証拠を基に検証してみると、自分は明らかに人間などではない。
・自分は巨大な一つ目で世界を見ている観察者である。
・観察者でありながらこの身体を操作することもできる、「摩訶不思議な存在」である。
・この世界はFPSゲームのようなものである。
・しかも、そこらのゲームや映画など遠く及ばないほどの臨場感をもっている。
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※ブログ開設初期と今とでは、僕の心境も大きく変わっています。
そのため、古い記事を読むよりも、
ブログの記事一覧から最近の記事(2013年11月以降)を選んで読むことをオススメします。
ちなみにいま一押しのテーマは、
「苦しみの原因シリーズ」と、
「自分は何者なのかシリーズ」
です。
そしていま一押しの本は、
「なにが起こっても、『絶対幸せ』でいる法」です↓↓
本当に幸せになりたい方は、このブログを読むよりも、この本を読んでその中で紹介されている方法を実践することをオススメします。
ちなみに、僕はこの本のお陰で苦しみから解放されました。
そのため、古い記事を読むよりも、
ブログの記事一覧から最近の記事(2013年11月以降)を選んで読むことをオススメします。
ちなみにいま一押しのテーマは、
「苦しみの原因シリーズ」と、
「自分は何者なのかシリーズ」
です。
そしていま一押しの本は、
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